それからBでもBBでも、両角を落としてMの形状をそのまま大きくした研ぎをしようと時間のある時に少しずつ練習を始めた。
そして、1984年に、ある作家にデパートでの展示会のために、自筆の原稿を借りた。
その礼状には「何たる書き味の良さでしょう!」と書かれてあり、やっぱりこの方法で良かったと確信した。
モンブランの一介の社員でありながら、モンブランのB、BBとして販売しているものを、まったく違う形状に変えてしまって良いものか、また気に入らなかったと言っても、元に戻すことは決して出来ないというプレッシャーから、実際にこの研磨は、自分のもの以外にはしたことがなかった。
BBを書いた時のその人の反応をじっと見ていた私に、一寸間をおいて「まさにこれがヌラヌラですね。言葉では知っていたけれども、実際に書いた経験は初めてで、感動しました。」と言ってくれた。
ああよかった。
この人が後に、いまは廃刊になった『 BTOOL 』という雑誌で、森山モデルと命名し紹介してくれたのである(1991年12月17日号第4巻16号<通巻56号>)。
1980年 Mr.ヂャンボアのNo.1147
1984年 作家の「何たる書き味の良さでしょう!」
1991年 森山モデル「まさにヌラヌラ」(1991年12月17日号第4巻16号<通巻56号>)
1994年 森山スペシャル『BTOOL』1994年8月18日号第6巻16号<通巻119号>
ありがたいことに、万年筆好きの人だったら良く知っている鳥海忠さんが、『ホンモノ探し――人生が豊になる小道具』という本の中で、モンブラン146森山モデルとして8頁に渡って書いていただいている。
ほかにNo.142も胴軸が折れて修理依頼をした。その内に親切にアドバイスしてくれた修理の担当の方が「今、修理する人が不足して困っているんだよね。」と言われた。何ということか。当方浪人生活も1年近いし、いい加減世間体も悪いし、いくら独身とはいえ定職がないあせりもあった。思いきって「私浪人なんですが、前の仕事はカメラの製造で、手先の仕事は慣れています。上司の方に入社させていただけないか聞いてもらえませんか。」と言った。当時モンブラン社の大きなイベントがあったりして、2~3ヶ月かかったが、運良く入社したのは1977年4月11日であった。決定した時はうれしかった。飛び上がった。
入社当時はまだ輸入元ではペン先調整をしていなかった。先輩から不要のペン先を頂き、いろいろなものを使ってペン先調整の練習をした。オイルストーン・ペーパー・ラッピングフィルム・和砥石・床屋で使っているカミソリ研ぎのコードバン等々。この練習をしている時に、最高のペーパーに出合った。外注でペン先調整をしてくれていた職人さんに教えられ、和紙に手塗りのペーパーですでに作られていなかった”サブローヤギシタ”の名の入ったもので、問屋の在庫全てを買ってしまった。これは幻と言っていたが、その後使ったどのペーパーよりもなめらかに仕上げられる、なくてはならないまさに幻であり、現在でもそのペーパーで最後の仕上げをしている。
入社2年の1979年4月に研修の為のモンブラン社出張があり、その研修でペン先のマイスターMr.パインから、各太さごとの研磨を教えていただいた。5種類の研磨材が1つの機械についていて、どのようにその研磨材に当て、最終的にはどのような形状に仕上げるのか、基本を1週間かけて研修したのであった。
モンブランの輸入元にいた17年間に数回のモンブラン社出張があったが、モンブラン社の人達にも、私が万年筆好きであることが浸透していて、出張の度に古い万年筆をいただいたり、モンブランの社員のコレクターを紹介してくれ、そのコレクターから数十本の古い万年筆やシャープを買うことができた。
最初の研修の時に、修理部門のあるデスクに1950年代のボールペンやシャープが4本あった。「これすごくいいですね。」と言ったら、その責任者は持っていっていいよと言った。しかし、その席には持ち主が居ないので「持ち主がいないのに。」と言うと、「この持ち主は、もう戻って来れない病気なのでかまわない。」 申し訳ないやら、有り難いやら。
その後の出張の時には、その責任者が私の顔を見るなり、「一寸待っててくれ。昔母親にあげたシャープペンシルがあった筈だから、持ってきてやるよ。どうせ母親は年だからもう使わない。」と言って、車で取りに行ってくれた。そんな思い出と共に、それらは今でも私の手元にある。
――僕には品物に名前をつける趣味があり、この3本の万年筆には「武蔵」「サム・スペード」「狂四郎」という名前がついています。書くのに苦渋しているときには「武蔵」を握って根性で書き、頭が冴えわたっているときは「狂四郎」を握ってさらに冴えて書き、ちょっと大量に書くときはバタくさくてタフなヤツ、「サム・スペード」で書くというわけです。 (1984年録)
私の経験から、作家に限らず、書き始める時は構想が定まらず、書いては破り、書いては破りを繰り返すことが多い。そのうち気分が乗ってくると、泉のように湧き出してくるものを流れるように早く書くために、自然と筆圧が強くなり、ペン先の腰の強い万年筆が合ってくる。
よく作家は、たたく様にして書くと言うが、その時は筆圧をしっかりと受け止めてくれる、かたいペン先が安心感を生む。北方さんも、「武蔵」「サムスペード」「狂四郎」、三本の万年筆の個性を活かして使い分けておられるのだろう。
私は昭和20年に札幌で生まれた。
昭和26年には父の仕事の関係で大田区の蒲田に移ったのだが、まだ街頭テレビを皆で群がって見ている時代であった。
たぶん昭和30年前後だったと思うが、高校生の時(昭和33年)に交通事故で亡くなった兄がまだ中学生だった頃、パイロットのテコ式の小さな黒い万年筆を持っていた。
この小さな黒いヤツが私にはやけにいとおしく、見るたびに好きになってしまった。
よく人から父親の万年筆をこっそりと書いてみたとか聞くが、私には勇気がなかったのか、兄のそれにさわることは恐れ多くできなかった。
そんなある日である。
あの黒くて小さな可愛いい奴に変って、黒いデカい奴が居るではないか。
我が目を疑った。何故だ、何んでなんだ。あんなにかわいくて、いとおしくて、自己主張せず、ひっそりとしていた奴に変って、何故こんなみにくいデカイ奴なんだ。子供心に本当にガッカリしてしまった。
おそるおそる兄に聞いた。
「あの小さい黒い奴はどうしたの。」
「ああ、あれ、友達と交換した。」
え、何とあっさりととんでもないことを言うのか。
「あれ、僕すごく好きだったんだ。」
「何だ、言えばやったのに。」
なん、なんだと、余りのことに言葉が出なかった。それ以来小さな万年筆が好きで、20年位前にはオマスダーマを手に入れ、そして今はペリカンの#300をいとおしんでいる。
このパイロットの小さな黒い奴が、私と万年筆の初めての出合いだった。
ご多聞にもれず、高校入学時には父からパイロットスーパーを買ってもらって使っていたのだが、高校の友人の中にも万年筆好きがいて、パーカーだ、いやシェファーだと言いながらも、お金のない私には無縁の世界だった。
あれは昭和38年か39年頃だったと思うが、当時切手を集めていた私は、時々東京中央郵便局に行っていたのだが、そこで目にしたのが、若い女性がハンドバッグの中からハンカチに包まれた何かを大切そうに取り出した。その静かな大事そうに取り扱う若い女性の姿に目を奪われていた私は、ハンカチから取り出されたモンブランNo.22の赤を見てしまった。物を大切に扱っている女性という背景があるにしろ、そのモンブランの姿・形・色に、私は強く引きつけられてしまった。モンブランというブランドは、なんとなくそれまでにも聞いていたが、出合いはこの時が初めてだったかも知れない。
そして大学の3年の時に技術を身につけたくて、あるアルバイトをした。このアルバイトは長期で続けるつもりだったので、初めての給与で、一生記念に残るものを買おうと思い、月給15000円の時に9500円のモンブランNo.14を買った。この万年筆が結果的にはモンブランの仕事をするキッカケになろうなど夢にも思わなかった。
このアルバイト先の先輩に万年筆好きな人がいた。この人はどこからともなく古くて良い万年筆を捜しては買ってくる人だった。ある日、その人が胸ポケットにペリカンを差していた。「そのペリカン古くて良さそうですね。」と私がたずねたところ、その先輩は「ペリカンみたいだけどモンブランなんだよ。」と言う。
うそだー、モンブランのマークがついてないのになにがモンブランだよと心でつぶやいていると、その先輩は見透かしたように「これはねモンテローザと言って、モンブランとしてはやすい商品なので天ビスにはマークがついていないけど、キャップのリングがあのマークの代りになっているんだよ。」と。
本当だった。
この万年筆も赤でとても可愛いい奴だ。
突然、「君これ好きなんだろう、あげるよ。」何で、こんな可愛いい奴を、はいいただきますなどと言えるはずがない。
「と、と、とんでもないですよ、こんな古くて今は売っていない万年筆、いただく訳にはいきません。」
あげる、いただけません、のやりとりがしばらくあって、結局いただいてしまった。
その日は仕事が終わるのが待ち遠しく、終了と同時に仕事場を出て、仕事場から見えないところまで来たことを確認して、内ポケットからその可愛いい奴を取り出し、ずっとながめながら歩いて家路を急いだことを昨日のように思い出す。
その先輩には、その後モンブランNo.142という高価な万年筆もいただいてしまった。