『白虎物語』 (無色庵 )
『白虎』。一般の人々は、ただ単に「四神」すなわち
「青龍」 ( 東 ・ 春 ・ 青 ・ 木 ・ 左 )
「白虎」 ( 西 ・ 秋 ・ 白 ・ 金 ・ 右 )
「朱雀」 ( 南 ・ 夏 ・ 赤 ・ 火 ・ 前 )
「玄武」 ( 北 ・ 冬 ・ 黒 ・ 水 ・ 後 )
の一つとして思い浮かべるだけであろう。
しかし私は、「ビャッコ」という音(おん)を耳にしたり、「白虎」という文字を目にしたりすると、それが脳に届くまでに「白虎隊」という言葉に変換され思わず目頭が熱くなってしまう。おそらく、多くの会津の人がそうであるように。
「白虎隊」、それは言うまでもなく幕末の悲劇、飯盛山で自刃したあの「花も会津の白虎隊」である。今も線香の煙が絶えないその墓前で、無心に剣舞を踊っている少年の日の自分の姿が瞼に浮かぶ。
会津の人は、「先(さき)の戦(いくさ)」といえば「太平洋戦争」ではなく「戊辰戦争」を指すという。かくいう私も家人からは「白虎隊狂」、時代錯誤もはなはだしいと呆れられている。しかし、それでもまだ、たかだか幕末である。上には上がいるもので、私のすぐ身近には周りから「安土桃山時代の人間」と呼ばれている人がいる。いやー、恐れ入った。
この場をお借りし、戊辰戦争時の会津藩の兵力をご紹介しよう。
「朱雀隊」(青年 18~35歳) 実戦機動部隊 約1,200名
士中1~4番隊 約400名
寄合1~4番隊 約400名
足軽1~4番隊 約400名
(身分により、士中、寄合、足軽と分けられた。)
「青龍隊」(中年 36~49歳) 国境守備隊 約900名
士中1~3番隊 約300名
寄合1~2番隊 約200名
足軽1~4番隊 約400名
「玄武隊」(老壮年 50歳~) 予備隊 約400名
士中隊 約100名
寄合隊 約100名
足軽1~2番隊 約200名
「白虎隊」(少年 16~17歳) 予備隊 約343名
士中1~2番隊 約91名(内、士中2番隊 約42名)
寄合1~2番隊 約173名
足軽隊 約79名
「砲兵隊」 1~2番隊 約100名
ここまでが正規軍で約3,000名である。
それに築城隊(約200名)の外、20~40歳の農民・町民・猟師・修験者・力士等
から選ばれた者(すべてこれから訓練)を含め、計約4,000名。
よって総兵力は約7,000名であった。
慶応4年(1868年)8月23日(現10月8日)、戸ノ口原の激戦に敗れた白虎士
中2番隊の20名は、傷ついた友をかばい、飢えと疲労に悩まされながら、敵の目を逃れ
猪苗代湖から会津盆地へ通じる疎水が流れる飯盛山中の洞門をくぐり、山頂に立った。
そこで彼らの目に映った鶴ヶ城は、……
このように深い思い入れのある、『白虎』という名の萬年筆があるという。
ペリカン限定888本の「四神」シリーズであった。1995年発売の「青龍」、1996年の「朱雀」、そして2000年の「白虎」と2001年の「玄武」である。
『白虎』との初めての出会いは、フルハルター第1号「M1000・緑縞・3B森山モデル」を受け取りに行ったときである。「スラスラヌラヌラ」に夢中になり、熱も下がって何時にもなく饒舌になった私が、
「森山さん、『白虎』という名の萬年筆があるそうですが御存じですか?」(な、何という失礼な!)
「ええ、売り物じゃないんですが、今(私用に?)1本あります。ごらんになりますか」
「えっ、ぜ、是非みせてください」
それを目にし、手にした時、もう勝負はついていた。
キャップチューブ、首軸、尻軸はその名の如く美しい白で、24金張り純銀製の同軸には見事な『白虎』が刻み込まれており、じいっと私を見つめていた。
私は見つめられるのに弱い。さらに輪をかけて、隣に座っていた初対面のお客さん(今では大の仲良し)が、
「私、何か、気のせいでしょうか。さっきから気になっているのですが。その虎、ずうーっと貴方を見ているように思えるのですが」
もう、絶体絶命。
「森山さん、お願いします! どこかにまだ残っていないでしょうか、探してください!!」
「わかりました。心当たりを当たってみましょう」
それから3日後、携帯電話が鳴った。
「見つかりました」
「えっ、本当ですか。ありがとうございます」
「ペン先はどうしましょう。…………」
「それでは、……でお願いします」
今、私の目の前に『白虎(303/888) 3B 森山モデル』が「愛しき日々」の歴史を飲み込んで静かに横たわっている。そしてその体内には、怨念の血の色「ウォーターマン・レッド」ではなく、沈黙の色「ペリカン・ブラック」が流れている。
私はこれで、あらたまった手紙をしたためる。 永久(とわ)の平和を願いつつ。