『若草物語』 (無色庵)
芽を出したばかりのやわらかな草「若草」は、乙女をも意味するという。
春の足音を感じさせる風物詩「若草山焼」、4人姉妹の成長の姿を爽やかに描いたオールコットの「若草物語」。そして、新鮮な春の若草の緑色を表す「若草色」。
私は、夢と希望と憧れに胸をときめかせながらも何故か不安で切なく物哀しい遠い昔の或る一時期を想い起こす。
それでは、この愛しくも切ない私の「若草」そして「若草色」との出会い、小さな恋の物語の旅へご一緒にどうぞ。

ある年の正月も開けた最初の土曜日、私は朝から気合いが入っていた。
今日は、フルハルターに行くぞ。行って森山さんに《究極の萬年筆》と言わしめた「ペリカンM1000」の緑縞、それも3Bを買うぞ。そして森山モデルに調整してもらい緑のインクを入れるんだ。
フルハルターのこと、そしてペン先のこともホームページや雑誌で下調べした。
それにしても森山さんというひとは相当な頑固親父らしいけど大丈夫かな。
えーい、かまうもんか。こちとらだって臍がとぐろを巻いてらい。
というわけで、午後1時過ぎ仙台坂に着いた。その店は思っていた以上に小さく、趣のある木製の看板でそれとわかった。大きく深呼吸を一つし飛び込んだ。
「こんちわー」
「はーい」
現れたのはお化けではなかった。ごく普通の親父、失礼! 優しい顔をした森山さんだった。ふー、安心した。
それは変人同士の劇的な出会いであった。
似た者同士は瞬時に意気投合。
土曜日の午後だというのに一人もお客さんが現れないのをいいことに(本当にそれでいいのか)、時間を忘れて話し込んでしまった。話題は萬年筆以外の森羅万象にも及び、あっという間に閉店時間、表通りには夕闇が迫っていた。
私が「M1000・緑縞・3B」の調整について最後にお願いしたのは、
「うらうらに照れる春日の午後、日当たりの良い縁側で十分にリラックスして、たっぷりとして量感のある太文字で、親しき友に手紙を書きたい。」であった。
森山さん、天使の笑顔で
「わかりました」
それから約2週間後、待ちに待った「調整が完了しました」との電話があった。
ヤッター!!
しかし、あいにくその日は前夜から熱を出して休んでいた。でも今日は月曜日。今日行かなければ木曜日まで待たなければならないのだ。そんな我慢は絶対に出来ない。
震える体で起きあがり、赤い顔をして電車に飛び乗った。
ふらふらしながらフルハルターのドアを開け、
「こんちわー」
「はーい。やっぱりいらっしゃいましたね。」
と、また例の天使の笑顔。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます!」
早速、前もって用意していたペリカンの緑を入れ試し書き。
「なんじゃーこれは!」
噂には聞いていたが、これがあの山口瞳氏のいう「スラスラヌラヌラ」の書き味だったのか。この感触はやはり体験した者にしかわからないのだろう。
それにしても、このうれしさ、この満足感は何なんだろう。久しく忘れていた胸のときめきを覚えた。
えっ、熱? そうでした。諺にもあるとおり、「ペンは熱よりも強し」、全快していたのである。

それからは毎日、暇さえあれば「スラスラヌラヌラ」の書き味と鮮やかな緑のインクを楽しんでいた。
しかし、そのうち、この緑のインクになんとなく違和感を感じるようになってきた。それは一体何故だろう。鮮やかな緑は大好きなはずなのに……。
あーそうか、そうだったのか。この色には一点のくもりもなく、あまりにも天真爛漫で明るすぎるのだ。何の悩みもない幼子の色なのだ。私に合うはずがない。もっとしっくり合う色のインクはないのだろうか。
インクを探してそうこうしているうちに、3月上旬になった。
どこからか「長原さんの万年筆クリニック開催」の話を耳にし、「そうだ、一度神様の顔を拝んでおこう」と思い立ち、蒲田に向かった。
神様は、次から次と相談に来られるお客さんとにこにこお話しされながら、あっという間にペン先を調整されていた。正に神業である。
そのお姿を、右後方からしばらく眺めていた。
と、その時である。誰かにじいっと見られているような気がしてふと左側の棚に目をやって体が凍りついた。あったのだ。そこに。
これだー! この色だー! 私の求めていたインク!!
思わず駆け寄った。
和紙に書かれた文字色見本と共に、上品な霞ガラスの瓶というよりは壷に入ったインク。手作りのようなその小さな壷の蓋に張られた丸い紙には小さな文字で「イエローグリーン」と書かれていた。
現在では一般に市販されているインク、今もそしてこれからも私の恋人であり続けるであろう「若草色」のインクとの出会いであった。

それ以来、最初に森山さんにお願いしたように、この「若草色」のインクで友人に手紙を書いている。
でべそさんの「モンブランボルドー」同様、表書きの文字の色を見ただけで私からの手紙だと友人たちはわかってくれる。
出会えて本当に良かった。ありがとう、私の「若草色」のインクよ。
これで私の小さな恋の物語、『若草物語』を終わらせていただく。
こんなにも私の心を穏やかに、そして豊かにしてくれた万年筆とインクたちに感謝しつつ。
