第二十八話 フルハンター
そこには…
『はじめましてフルハンターさんのサイトには頻繁に教えを請いに訪れてさせてもらってます。お忙しい中、意味のないメールを送信して恐縮ですが、森山さんの万年筆に関する思想に共感せざるを得なく、自動的にメールを書いている次第であります。
フルハンターという場をサロンのようにしたいとのお言葉を拝読して、私の大学での恩師であり文芸評論家である、先生のことを思い出しました。先生はいつも研究会はサロンだからと仰っておられました。その先生もモンブランの149を使っていたのを覚えています。』
とあった。
この後、自分も脂汗がにじみ出る程の高価な149を先日買って書くことをおおいに楽しんでいる。
いつの日か、私が調整した万年筆を買うのが夢である。どうしても書かずにはいられなかった。と続いていた。
1993年、店を始めるときに、
・ 気軽に相談してくれるような
・ ただ、遊びにいらしていただけるような
になればいいがと思った。
言葉を変えると、“サロン”と皆様に位置づけていただけることを願っての12年目である。
店は主だけで造り上げられるものではない。
そこに集うお客様達と共に造られるものだと、私は思っている。
ここ2~3年、同じような嬉しいメールをいただくことがあり、ご来店くださったお客様からも、
「願いが叶ったんじゃないですか。私もサロンだと思いますよ。」と言われることもある。
それは、私自身も少々実感している。当たり前だが、その思いがあっても、「時間」、「歴史」が必要である。
「やっと、ここまで来れた。」
これからも、多くの方々にサロンと位置づけられるよう、生きてゆきたいと、切に願っている。
2000年11月に立ち上げたこのサイトも、販売する為のツールとは全く考えていなかった。
店は、万年筆、それも道具としての万年筆にこだわる人達が集うサロン。
サイトは、万年筆とは…を知っていただく為のツールと考えて始めた。
今回のメールを下さった方は、「教えを請いに訪れた」と言われた。
「店はサロンのような」 「サイトでは万年筆を知っていただく」
二つの私の思いが、多くの方々に伝わったとの大きな喜びがある。
店を開業して良かったし、サイトも立ち上げて本当に良かったと思っている。
最後に、メールを下さった方がこれを読んだ時、気になさるのではと思うので、私の気持ちを書きます。
店の屋号は“フルハルター”であり、“フルハンター”ではない。
なぜ、多くの方々が“フルハンター”と思われているのか、私には心当たりがある。
1990年代の終わりに、ある雑誌が屋号を“フルハンター”と書いてしまった。周りの方々から、
「とんでもないことだよ。厳重に抗議しろ。」と言われた。当然のことである。
店をやっている者にとって、「屋号は命」が世の常である。
一応取材に来た担当者に電話で伝えると、その反応は
「あ~、そう~」と、言った感じであった。この男には何を言ってもダメだと感じた。後で聞いた話だが、他からも借りた物を失くしたりということがあるような男だった。
そんな経緯があり、“フルハルター”ではなく、“フルハンター”とインプットされてしまった方も少なくないようだ。
でも、よく考えてみると、このサイトが、ご覧いただいている方の心を捉えているならば、“フル ハンター”も、あながち間違いではないのかもしれないと、ほくそえんでいる。
今回のメールの方、これまでにも“フルハンター”と言われた方、“フルハンター様”で手紙を下さった方、気になさらないでください。
極端な言い方だが、私にとって屋号など、どうでもいい。
何と呼ばれようが、私は私であり、世に一人しかいないし、店は店で、一つしかないのだから。
これからも、サロンであり続け、広い意味で「万年筆とは何ぞや」を伝え続けてゆくサイトでありたいと思っております。