<7> 開高 健氏 その2
――精妙をきわめた自動装置で何万本、何十万本と一つのブランドの万年筆が製造されるのに、使用者の指と化し果てるまでになじみきれるのは1本か2本あるかなしであるという事実は興味が深い。
しかも、K氏にとってのその1本がO氏にとってはしばしばどうしようもないシロモノと感じられるのがふつうであるという事実もまた興味深い。 ヒトには個性があり、癖があり、好みがあって、そこにこめられた心は不可侵であり、小さな聖域であって、どうしようもない性質のものである。 (1982年録)
皆さんも万年筆メーカーは自動装置によって何万、何十万と製造していると思われているのではないだろうか。 確かにそうして作られる部分もあるが、ペン先は自動装置により何万、何十万など作れない。 ペン先にニブポイントを溶接した丸玉(イリジウム)からすべて手による研ぎ出しはしていないが、かといって自動装置によって次から次へと飛び出してはくれない。 同じ筆記具といえどもボールペンとは全く違う工程があり、それがペン先だ。
万年筆好きで今までに多くの万年筆を試したことがある人ならお判りだろうが、同じメーカーの同じモデルの同じペン先の太さのものでも太さ・書き味・インクの出方に同じモノはない。 それだけ人による手仕事の部分が多いという証明だ。 悪く言えば「バラツキがある」だが、良く言えば人それぞれの好みに合うものを選べるということだ。
人は顔・指紋が違うように筆記角度・筆圧そして好みが違う。 どこのラーメン屋へ行っても同じ味ではつまらない。 自分に合う味のラーメン屋に出会った時の喜びはその人にしか判らないが、その味が他の人にとっても美味いとは限らない。
万年筆も同じだ。 ということを、開高さんは言っておられるのではないのだろうか。
by fullhalter
| 2002-02-16 11:05
| 作家と万年筆