フルハルター*心温まるモノ

第一話 万年筆との出会い

  「私と万年筆」――多くの人がそう題するに値する物語りの一つや二つ、持っていることだろう。私の人生においてもまた、ある瞬間に、万年筆との出会いがあった。それ以来、振り返ってみると、実にたくさんの良き万年筆との出会い、良き人たちとの出会いに恵まれてきた。ここではそんな出会いのいくつかをご紹介していきたい。読まれる方が自分自身の物語りを思い起こすよすがとなれば幸いである。

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私は昭和20年に札幌で生まれた。
昭和26年には父の仕事の関係で大田区の蒲田に移ったのだが、まだ街頭テレビを皆で群がって見ている時代であった。
たぶん昭和30年前後だったと思うが、高校生の時(昭和33年)に交通事故で亡くなった兄がまだ中学生だった頃、パイロットのテコ式の小さな黒い万年筆を持っていた。
この小さな黒いヤツが私にはやけにいとおしく、見るたびに好きになってしまった。
よく人から父親の万年筆をこっそりと書いてみたとか聞くが、私には勇気がなかったのか、兄のそれにさわることは恐れ多くできなかった。
そんなある日である。
あの黒くて小さな可愛いい奴に変って、黒いデカい奴が居るではないか。
我が目を疑った。何故だ、何んでなんだ。あんなにかわいくて、いとおしくて、自己主張せず、ひっそりとしていた奴に変って、何故こんなみにくいデカイ奴なんだ。子供心に本当にガッカリしてしまった。
おそるおそる兄に聞いた。
「あの小さい黒い奴はどうしたの。」
「ああ、あれ、友達と交換した。」
え、何とあっさりととんでもないことを言うのか。
「あれ、僕すごく好きだったんだ。」
「何だ、言えばやったのに。」
なん、なんだと、余りのことに言葉が出なかった。それ以来小さな万年筆が好きで、20年位前にはオマスダーマを手に入れ、そして今はペリカンの#300をいとおしんでいる。
このパイロットの小さな黒い奴が、私と万年筆の初めての出合いだった。

ご多聞にもれず、高校入学時には父からパイロットスーパーを買ってもらって使っていたのだが、高校の友人の中にも万年筆好きがいて、パーカーだ、いやシェファーだと言いながらも、お金のない私には無縁の世界だった。
あれは昭和38年か39年頃だったと思うが、当時切手を集めていた私は、時々東京中央郵便局に行っていたのだが、そこで目にしたのが、若い女性がハンドバッグの中からハンカチに包まれた何かを大切そうに取り出した。その静かな大事そうに取り扱う若い女性の姿に目を奪われていた私は、ハンカチから取り出されたモンブランNo.22の赤を見てしまった。物を大切に扱っている女性という背景があるにしろ、そのモンブランの姿・形・色に、私は強く引きつけられてしまった。モンブランというブランドは、なんとなくそれまでにも聞いていたが、出合いはこの時が初めてだったかも知れない。

そして大学の3年の時に技術を身につけたくて、あるアルバイトをした。このアルバイトは長期で続けるつもりだったので、初めての給与で、一生記念に残るものを買おうと思い、月給15000円の時に9500円のモンブランNo.14を買った。この万年筆が結果的にはモンブランの仕事をするキッカケになろうなど夢にも思わなかった。
このアルバイト先の先輩に万年筆好きな人がいた。この人はどこからともなく古くて良い万年筆を捜しては買ってくる人だった。ある日、その人が胸ポケットにペリカンを差していた。「そのペリカン古くて良さそうですね。」と私がたずねたところ、その先輩は「ペリカンみたいだけどモンブランなんだよ。」と言う。
うそだー、モンブランのマークがついてないのになにがモンブランだよと心でつぶやいていると、その先輩は見透かしたように「これはねモンテローザと言って、モンブランとしてはやすい商品なので天ビスにはマークがついていないけど、キャップのリングがあのマークの代りになっているんだよ。」と。
本当だった。
この万年筆も赤でとても可愛いい奴だ。
突然、「君これ好きなんだろう、あげるよ。」何で、こんな可愛いい奴を、はいいただきますなどと言えるはずがない。
「と、と、とんでもないですよ、こんな古くて今は売っていない万年筆、いただく訳にはいきません。」
あげる、いただけません、のやりとりがしばらくあって、結局いただいてしまった。
その日は仕事が終わるのが待ち遠しく、終了と同時に仕事場を出て、仕事場から見えないところまで来たことを確認して、内ポケットからその可愛いい奴を取り出し、ずっとながめながら歩いて家路を急いだことを昨日のように思い出す。
その先輩には、その後モンブランNo.142という高価な万年筆もいただいてしまった。
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# by fullhalter | 2001-01-01 14:16 | 私と万年筆